2020年04月18日
「間合い」にまつわる身体論
ブログ
こんにちは、兵庫県伊丹市の西田鍼灸療院です。伊丹市内を中心に尼崎市・豊中市をはじめとする阪神・北摂地区の患者様のお身体の悩みを「根本改善」に導く「根本治療」の鍼灸を提供しております。
間合いとは、自分と相手との距離を言い、この空間をどのように処理するかが勝敗の分かれ道であるがゆえに、相撲、剣道、柔道、野球などの対戦競技で話題になることが多いが、実は、我々の生活のあらゆる場面で登場する。
当院の施術行為も、まさに「間合いを形成する」行為に他ならない。
何よりこの成否が治療効果を左右すると断言してもいい。
そこで今回は、間合いを形成するために身体が何をなし遂げているかの考察を通して「間合いにまつわる身体論」を書き進める。
鍼灸に慣れない患者様の多くは、「ハリは痛くないかな?」、「お灸は熱く、跡が残るのでは?」といった不安や恐怖心から、「どうしていたらいいのかわからない」という感覚、つまり「決まりの悪さ」を感じる。
このような「決まりの悪さ」に患者様がどのように対処しているのか。
当院は長年のコミュニケーションの微視的観察によって、患者様がしばしば「モノになる」という方法を用いていることに気づいた。
あからさまなコミュニケーションの相手としてそこにいるのではなく、まるで「モノ」になったつもりでじっと身体を動かさないようににしたり、アイコンタクトをあえて避けて施術者から視線を外したりする。
このように、施術者との関わりの度合いを弱めようとすることも、間合いを調整することである。
間合いを考える上で、東洋医学の気の「エネルギー」という概念が重要である。
我々の身体は各々「エネルギー」のようなものを発していて、その都度、その場に存在する他者や環境が発するエネルギーを読み取り、それに応じて自らのエネルギーの放出の仕方を決めることで間合いを形成する。
臨床場面では、施術者と患者様の身体がかなり接近することになるために、互いの発するエネルギーを感知し合うが、その際視線を外すことで、相手に向かうエネルギーを減殺させ、自分は過度に関わるつもりがないという態度を示すことが出来る。
このようなやりとりによって、患者様は「心地よいとは言えぬまでも不快ではない」間合いを取ろうとし、施術者もそれに追随することで物理的には距離が接近しているとしても、心理的な最適距離を保とうとする。
日常会話で我々は、「話し手」と「聞き手」としてコミュニケーションに参加しているのだが、臨床場面では、自覚症状を語る「話し手」と、施術方針を受け入れる「聞き手」として会話に参加するだけでなく、施術を受ける「モノ」として「施術」に参加することを求められる。
我々の身体は、ある時には話し手や聞き手としてコミュニケーションに参加する主体となり、またある時には施術を受ける「モノ」になる。
日常会話という活動が話し手と聞き手による共同産物であるように、施術という活動もまた施術者と患者様との共同産物である。
施術者がいくら一方的にことを進めようとしても、その働きかけに対して患者様が適切に応じていただけなければ施術は滞ってしまう。
患者様が、自ら「モノ」になることで施術を滞りなく進行させることに貢献するのだが、当院の実際の臨床場面を観察すると、患者様が「モノになる」状態に至るまでに随分と複雑で厄介な間合いの調整が行われることがわかってきた。
例えば、施術者が患者様の身体に器具(鍼管)を近づけ施術を始めようとしながら、それでもなお、患者様との会話を続けようと図る時、施術者は器具を近づけることで、「これから施術しますよ」というエネルギーを患者様に対して発する。
この行為によって施術者は、患者様に対して「診療に応じて下さい」というある種の圧力をかけるが、同時に施術者は、患者様に話しかけることで、「発話に応答して欲しい」という意図も伝え続ける。
このように、施術者の「施術したい」というエネルギーと、「発話に応答して欲しい」という意図を同時に醸し出した時、患者様は、このまま施術者との会話を続ければいいのか、それともモノになって施術を受けた方がいいのか、悩ましい状況に陥る。「会話するか、施術されるか」というジレンマが生じる訳である。
いくら患者様が「モノになろうとしている」時であっても、相手が人間である以上、施術者は引き続き何らかの反応を期待しても良いわけであるが、反応を期待された側には「会話するか、施術されるか」というジレンマが生じ、それに対して瞬時に対応するために、複数の身体部位を駆使してかかわりを分散させ、絶妙なタイミングをを見計らうといった微細な間合いの調整が行われる。
このような患者様の絶妙なタイミングでの身体的反応を施術者が十全に受け止め、施術に反映させるためには何が必要か!
それは患者様の「訴えを聴き入る」ことである。
聴き入ることは、相手に「真っすぐに向き合う」行為であり、相手の“声”(いわゆる「声なき声」を含む)に「細心の注意を払う」行為であり、「何事も受け入れる用意をする」、「いかなる想定外にも対処できる用意をする」ことであり、「自分の思い込みを捨て去る」行為である。
当院はこれからも患者様の振る舞いの「背後にある訴えを聴き入る」という深い情感を含んだやりとりを通して間合いの調整を図り、有意義な施術の実現に努めたいと思っている。
間合いとは、自分と相手との距離を言い、この空間をどのように処理するかが勝敗の分かれ道であるがゆえに、相撲、剣道、柔道、野球などの対戦競技で話題になることが多いが、実は、我々の生活のあらゆる場面で登場する。
当院の施術行為も、まさに「間合いを形成する」行為に他ならない。
何よりこの成否が治療効果を左右すると断言してもいい。
そこで今回は、間合いを形成するために身体が何をなし遂げているかの考察を通して「間合いにまつわる身体論」を書き進める。
鍼灸に慣れない患者様の多くは、「ハリは痛くないかな?」、「お灸は熱く、跡が残るのでは?」といった不安や恐怖心から、「どうしていたらいいのかわからない」という感覚、つまり「決まりの悪さ」を感じる。
このような「決まりの悪さ」に患者様がどのように対処しているのか。
当院は長年のコミュニケーションの微視的観察によって、患者様がしばしば「モノになる」という方法を用いていることに気づいた。
あからさまなコミュニケーションの相手としてそこにいるのではなく、まるで「モノ」になったつもりでじっと身体を動かさないようににしたり、アイコンタクトをあえて避けて施術者から視線を外したりする。
このように、施術者との関わりの度合いを弱めようとすることも、間合いを調整することである。
間合いを考える上で、東洋医学の気の「エネルギー」という概念が重要である。
我々の身体は各々「エネルギー」のようなものを発していて、その都度、その場に存在する他者や環境が発するエネルギーを読み取り、それに応じて自らのエネルギーの放出の仕方を決めることで間合いを形成する。
臨床場面では、施術者と患者様の身体がかなり接近することになるために、互いの発するエネルギーを感知し合うが、その際視線を外すことで、相手に向かうエネルギーを減殺させ、自分は過度に関わるつもりがないという態度を示すことが出来る。
このようなやりとりによって、患者様は「心地よいとは言えぬまでも不快ではない」間合いを取ろうとし、施術者もそれに追随することで物理的には距離が接近しているとしても、心理的な最適距離を保とうとする。
日常会話で我々は、「話し手」と「聞き手」としてコミュニケーションに参加しているのだが、臨床場面では、自覚症状を語る「話し手」と、施術方針を受け入れる「聞き手」として会話に参加するだけでなく、施術を受ける「モノ」として「施術」に参加することを求められる。
我々の身体は、ある時には話し手や聞き手としてコミュニケーションに参加する主体となり、またある時には施術を受ける「モノ」になる。
日常会話という活動が話し手と聞き手による共同産物であるように、施術という活動もまた施術者と患者様との共同産物である。
施術者がいくら一方的にことを進めようとしても、その働きかけに対して患者様が適切に応じていただけなければ施術は滞ってしまう。
患者様が、自ら「モノ」になることで施術を滞りなく進行させることに貢献するのだが、当院の実際の臨床場面を観察すると、患者様が「モノになる」状態に至るまでに随分と複雑で厄介な間合いの調整が行われることがわかってきた。
例えば、施術者が患者様の身体に器具(鍼管)を近づけ施術を始めようとしながら、それでもなお、患者様との会話を続けようと図る時、施術者は器具を近づけることで、「これから施術しますよ」というエネルギーを患者様に対して発する。
この行為によって施術者は、患者様に対して「診療に応じて下さい」というある種の圧力をかけるが、同時に施術者は、患者様に話しかけることで、「発話に応答して欲しい」という意図も伝え続ける。
このように、施術者の「施術したい」というエネルギーと、「発話に応答して欲しい」という意図を同時に醸し出した時、患者様は、このまま施術者との会話を続ければいいのか、それともモノになって施術を受けた方がいいのか、悩ましい状況に陥る。「会話するか、施術されるか」というジレンマが生じる訳である。
いくら患者様が「モノになろうとしている」時であっても、相手が人間である以上、施術者は引き続き何らかの反応を期待しても良いわけであるが、反応を期待された側には「会話するか、施術されるか」というジレンマが生じ、それに対して瞬時に対応するために、複数の身体部位を駆使してかかわりを分散させ、絶妙なタイミングをを見計らうといった微細な間合いの調整が行われる。
このような患者様の絶妙なタイミングでの身体的反応を施術者が十全に受け止め、施術に反映させるためには何が必要か!
それは患者様の「訴えを聴き入る」ことである。
聴き入ることは、相手に「真っすぐに向き合う」行為であり、相手の“声”(いわゆる「声なき声」を含む)に「細心の注意を払う」行為であり、「何事も受け入れる用意をする」、「いかなる想定外にも対処できる用意をする」ことであり、「自分の思い込みを捨て去る」行為である。
当院はこれからも患者様の振る舞いの「背後にある訴えを聴き入る」という深い情感を含んだやりとりを通して間合いの調整を図り、有意義な施術の実現に努めたいと思っている。
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